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2010年7月

美術全集の成立・展開・変容――太田智己氏(東京藝術大学大学院博士課程/日本学術振興会特別研究員DC)を迎えて


今月の「現場」研究会は太田智己氏を迎え、美術全集の成立と変容について発表いただいた。

美術全集の役割とは何か―、「アカデミックとパブリックの仲介メディア」であると太田氏は答える。
タイトルに初めて全集の名を冠した『世界美術全集』(平凡社、1927年)の誕生は、専門家の執筆による美術記述を一般の人々に届ける仕組みを用意していた。しかし、戦後の刊行ブームによりいくつもの全集が誕生し、美術全集は美術の専門家を育成する装置としての役割も果たすようになったのではないか。近年、『世界美術大全集』(小学館、1992-2001)を最後に新しい美術全集の刊行はないが、全集を介して専門的知識を啓蒙する時代は幕を閉じたと太田氏は締めくくった。
美術全集による専門家の醸成の構造を刊行と広告の観点から指摘するなど、新鮮な切り口でお話いただいた。

オーディエンスからは、全集の終焉は批評の終焉とも重なるのではないか。全集タイトルの付け方と収録されている美術の範囲の関係についてはどうか。紙以外の媒体による刊行についてはどのように考えるかといった声が次々に寄せられ、今回の発表に対する関心の高さが伺われたのとともに、時間の足りなさを痛感した2時間半であった。


●2010年7月24日(土)「現場」研究会討議記録

テーマ:美術全集の成立・展開・変容―アカデミックとパブリックとを繋ぐメディア―
ゲスト:太田智己

はじめに
 本発表の目的は、美術出版物の一形態である美術全集というメディアの歴史的な歩みをたどることにより、その美術史学史上の意義を明らかにすることである。
 美術全集はゼロ年代以降、小学館による『世界美術大全集』(1992~2002年)を掉尾として、新規の大規模な刊行が行なわれていない。しかし本発表で示したとおり、美術全集はその嚆矢である平凡社の『世界美術全集』(1927~30年)以来、半世紀以上にわたって、アカデミックの美術史研究とパブリックの美術史受容の双方、美術史学界全体の構造に関与するメディアだった。美術全集の本格的な出版が行なわれなくなった現在、その学史上の歩みと意義を総括しておくことは、美術史学の今後の行方を考えるためにも無意味なことではないだろう。
 そこで本発表では、美術全集の成立(第1節)、展開(第2節)、変容(第3節)の過程を、アカデミックとパブリックという二つの主体との関係を踏まえながら検討することで、美術全集の美術史学史的な意義を考察した。

第1節 成立(1920~30年代):円本美術全集『世界美術全集』
 「美術全集」の語を書名に冠した最初の美術出版物は、平凡社により円本形式で刊行された全集本、『世界美術全集』(全36巻、平凡社、1927~30年)である(1)。同全集は、先史時代から大正期(当代)までの日本・東洋・西洋美術を扱い、「美術書は大抵五百部か多くて千部」とされていた当時(2)に、平凡社の公称で12万5000部の購読予約を獲得したとされる(3)。美術全集の嚆矢ともいえるこの『世界美術全集』は、そもそもどのような美術出版物だったのだろうか。本発表では次の二つの特質を指摘した。
 『世界美術全集』の特質として第一に挙げられるのは、同全集が日本国内の国民、公衆、パブリックに対して発信されたこと(4)である。同全集は、国内主要紙における度重なる販売広告の掲載や、国内各地での宣伝イベントの開催など、日本の美術出版物としては空前の規模の宣伝広告を国内に向けて行なった。また同全集では、“読者ウケ”を考慮した配本構成が行なわれたほか(5)、関連グッズの通信販売も行なわれるなど、購読者の文化消費を煽動する様々な商業的な方策が試みられていた。こうした『世界美術全集』の特質は、それまでの美術出版物の頒布方針とは根本的に異質なものだった。知られているように、たとえばHistoire de L’art du Japon (1900年)や、和文英文併記の審美書院の美術書籍(たとえば『真美大観』)など、それまでの美術出版物は、主に文化外交戦略のために西洋国家に対して発信されており、国内での流通には積極的な配慮がなされていなかったからである。『世界美術全集』において初めて、美術出版物は日本国内のパブリックへ向けて実践的に販売されるようになった。そして留意しておくべきことは、『世界美術全集』の販売広告では、「月に一円で家庭美術館が建つ」や、「孫末代までの家宝!」(6)などの宣伝コピーが頻繁に用いられ、この「家庭美術館」を築くための専用書架までが通信販売(7)されていたことである。つまり『世界美術全集』では、国内のパブリック、しかもその「家庭」という場に対して、全集という“モノ”を、専用書架に配架して所蔵し(8)「家宝」とするような受容のあり方(さらに言えば、美術品を図版として収載する美術全集を所有することによる、美術品の擬似的な所有)を推奨していたのである。
 加えて『世界美術全集』の第二の特質は、同全集におけるアカデミック(専門研究者)の参加である。詳細については別稿を用意したいが、1920~50年代という時期は、帝国大学の美術史学講座と美術研究所を拠点として、文部省科学研究費交付金(現在の科学研究費補助金)の受給などを背景に、科学としての美術史学が一己のディシプリンとして確立してゆく時期だった。こうした環境をバックグランドとして、1920年代以降、美術史学の専門研究者、つまりアカデミックたちが安定的に輩出されるようになる。それとともに、明治期以来の美術史研究を主導していた非専門研究者(美術批評家、美術作家、他ディシプリンの研究者)らは、美術史研究からは撤退してゆくことになった。そうした動向のまさに最初期に刊行されたのが『世界美術全集』だった。同全集は、田中一松や秋山光夫、松本榮一らの第一世代のアカデミックが、本格的に執筆に参加し始めた最初の大型美術出版物だったのである。そのうえで『世界美術全集』では、彼らアカデミックの権威と美術史認識に依拠しながら、「古今東西五千年の天才巨匠が人類に寄与した絵画、彫刻、建築、工芸等あらゆる美術の神品名作」を「網羅」する(9)ことが志向されていた。そして実際に同全集は、先史時代から大正期までの全36巻の構成の中で約4800件の作品図版を収載し、その“網羅性”を体系的に具体化させている。
 以上のように円本美術全集『世界美術全集』では、パブリックへの発信、アカデミックの参加という二つの特質が実現されていた。つまり同全集は、アカデミックとパブリックを仲介し、前者から後者へ向けて美術史学の専門知を伝える機能を担っていたのである。そしてこの機能は、同全集を嚆矢として、戦後の『少年世界美術全集』(全6巻、実業之日本社、1954~55年)や、平凡社の第2次『世界美術全集』(全30巻、1956~57年)にも同様に踏襲されていった。こうして美術全集は、アカデミックがアカデミックに向けて発信する専門研究書などとは異なるメディアとして、独自の道を歩み始めることとなる。

第2節 展開(1960~80年代):美術全集ブーム
 1960年代になると、講談社の『日本美術体系』(全11巻、1959~61年)などを口火として、小学館や学習研究社、集英社、角川書店などの商業出版社が、相次いで大部の美術叢書を刊行し始めた。 “美術全集ブーム”(10)といわれる一連の動向である。同ブームは高度成長や戦後全集・事典出版ブームを背景として展開し、1980年代まで続くこととなる。この“美術全集ブーム”下の美術全集は、その特質や機能において、前節で先述した円本美術全集『世界美術全集』とどのような異同があったのだろう。
 “美術全集ブーム”期の全集としては、小学館から刊行された『原色日本の美術』(全31巻、1966~72年)が最も代表的なものとして挙げられる。『原色日本の美術』は、“ブーム”の終了後も、1990年代に至るまで数回にわたる改版と増刷を行ない、1990年の時点で50万部が売れ続けていたとされる(11)。さらに同叢書は、『原色世界の美術』や『原色現代日本の美術』などのシリーズ展開も行なっており、まさに“美術全集の金字塔”ともいうべき全集だった。この『原色日本の美術』にも、先述の円本美術全集『世界美術全集』と同様に、パブリックの家庭への発信という特質は確認できる。『原色日本の美術』でも、国内全国紙の広告で、「民族の美を家庭に総集」、「ご家庭の新しい文化財」(12)、「知的な文化調度品であり財産図書」(13)、「家庭美術館」(14)などのコピーが盛んに用いられ、「豪華専用書架」の配布も行なわれていたからである(15)。また『原色日本の美術』にも、田中一松、米沢嘉圃、吉川逸治、秋山光和、川上貢、山根有三、松下隆章などが参加し、アカデミックの参加という特質が実現されていた。さらに、「「国宝」「重要文化財」五,〇〇〇余点を空前の規模で収録」し、「国家的スケールの大編集…現在、最も充実した内容と完璧な資料性を誇る」など(16)、 “網羅性”が体系的に志向される点も『世界美術全集』と同じだった。そしてこれらの特質は、“美術全集ブーム”下の他の多くの全集にも共通するものだった。たとえば学習研究社の『日本美術全集』(全26巻、1977~80年)でも、「これからは美術全集のある家庭」(17)などのコピーが新聞広告に用いられ、小林忠、辻惟雄、河野元昭、佐々木丞平、山川武らのアカデミックが参加していたからである。美術全集は“美術全集ブーム”下にあっても、『世界美術全集』以来のかたちで、アカデミックとパブリックを仲介する機能を担っていたことになる。
 これに加えて“美術全集ブーム”期の美術全集は、アカデミックの拡大再生産ともいうべき新しい役割も果たすことになる。自身の研究者としてのキャリアの出発点に、美術全集との出会いがあったことを回顧するアカデミックは少なくない(18)。たとえば木下直之氏も、自身の大学進学前から「家の中には、小学館の日本美術全集の廉価版(ブック・オブ・ブックス)ぐらいはあったかもしれない」とし、美術史を学び始めた大学在学中には研究室割引で美術全集を購入したことを回想している(19)。つまり美術全集は、アカデミックのリクルート、育成、養成の過程にも関わっていたことになる。また複数の有力アカデミックが共同して参加する美術全集は、そこで示される美術史認識を、学界におけるメインストリームの美術史認識としてオーソライズする効果も持っただろう。さらに、とくにジャンル別や作家別の巻構成をとる美術全集は、美術史研究の各論化と専門化を推し進めることになったとする指摘もなされている(20)。
 本節で論じた事項をまとめると、1960~80年代の“美術全集ブーム”期、美術全集は円本美術全集『世界美術全集』を踏襲し、引き続いてアカデミックとパブリックを仲介する機能を担っていたことが指摘できるだろう。加えてこの時期の美術全集は、アカデミックの拡大再生産という新しい役割をも引き受けていたのである。

第3節 変容(1990年代~):多極化と衰退
 ところがそうした“美術全集ブーム”も、1980年代には収束してしまう。そして平成不況下の90年代以降には、それまでとは異なる形式をとる美術全集が様々に現れるが、美術全集というメディアそのものは全体として衰退に向かっていった。たとえば小学館では、既刊の『名宝日本の美術』(全26巻、1980~83年)のリヴァイヴァルが試みられ、『新編名宝日本の美術』(全33巻、1990~92年)が刊行された。また『週刊グレート・アーティスト』(全100号、同朋舎出版、1990~92年)、『週刊アーティスト・ジャパン』(全60号、同朋舎出版、1992~93年)、『週刊朝日百科日本の国宝』(全111号、朝日新聞社、1997~99年)など、分冊百科形式の全集も盛行した。一方で“美術全集ブーム”の“残滓”とも言えるかたちで、講談社『日本美術全集』(全26巻、1990~94年)、小学館『世界美術大全集』(全47巻、1992~2001年)などの大型美術全集も刊行された。しかしこうした大型全集の出版は、『世界美術大全集』を最後に行なわれなくなっている。そうした状況下、とくにゼロ年代以降の書店の店頭などでは、山本勉『仏像のひみつ』(朝日出版社、2006年)を筆頭に、尾崎正明監修『すぐわかる画家別近代日本絵画の見かた』(東京美術、2003年)、岩田茂樹・稲本泰生監修『観る作法:やさしい仏像』(永岡書店、2008年)など、コンパクトなサイズの入門書、概説書が、美術全集に替わるパブリック向けの書籍として、より目を引くようになっている。
 美術全集の多極化と衰退ともいえるこれらの諸動向には、どのような意味があるのだろうか。発表では次の二点を指摘した。第一は、アカデミックからパブリックへと美術史学の専門知を伝える回路の綻びである。前節までに先述したとおり、美術全集はその誕生時から、パブリックへの発信とアカデミックの参加という二つの特質を備えていた。しかし90年代以後に刊行された『世界美術大全集』などの大型全集は、他の形式のパブリック向け美術書籍に比べ、その規模や価格などが事実上、アカデミック向けの書籍、専門研究書に近いものとなっている。またゼロ年代以降の入門書や概説書には、そもそもアカデミックが執筆に参加していないものも少なくない。さらに美術全集の刊行そのものが事実上の凍結状態となってしまったこと自体が、アカデミックとパブリックとを繋ぐ回路の一つを途絶させてしまった。
 第二はパブリックの美術史認識を変化させる可能性である。第一節と第二節で先述のとおり、それまでの美術全集では、膨大な量の作品図版を“網羅”して体系的に纏めあげ、それを“モノ”として専用書架に配架し、「家宝」とするような受容のあり方が想定されていた。ところが90年代以降の分冊百科やコンパクト・サイズの入門書は、(分冊百科に専用“バインダー”はあるものの)そもそも書架に配架するほどの“モノ”としての存在感、量感(巻数、頁数、装丁など)を持っていない。またとくに入門書や概説書では、「すぐわかる」や「観る作法」といった書名(前掲)に示されているように、膨大な量の作品を図版化しながら体系的に纏め上げるより、膨大すぎる作品にアクセスするための方法を指南するものが多い。こうした変質は、パブリックの美術史認識、消費のあり方にも少なからぬ変化をもたらす可能性があるのではないだろうか。

おわりに
 以上から導かれる本発表の結論は次のとおりである。美術全集は、円本美術全集『世界美術全集』を嚆矢として1920年代に成立し、1960~80年代の“美術全集ブーム”下で展開、拡大するなかで、アカデミックとパブリックを仲介し、前者から後者へ向けて美術史学の専門知を伝える機能を持ち続けていた。しかし1990年代以降には、その形式や機能、存在そのものが変容し、揺らいでいる。
 美術全集の刊行が行なわれなくなった10年代以降、アカデミックのリクルートや、美術史の体系的、網羅的把握、パブリックへの美術史知識の普及は、どのようなメディアにより担われるのだろうか。美術全集に替わる新しいメディアが出現するのだろうか。発表では、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーや、WEBコンテンツがそれを引き受ける可能性に言及して締めくくりとした。

 


(1) 奇妙なことに、このことはこれまでの美術史学史研究では指摘されてこなかった。ただし、三上豊氏が「美術全集というのは、1928年か29年に平凡社が20巻くらいの美術全集を作ったのが最初です」と指摘していることを本発表の終了後に知った。第62回「現場」研究会討議記録(http://genbaken.com/genbaken/minutes0802.html)。
(2) 黒田鵬心「「世界美術全集」追想」、『芳岳』6、1962年、48頁。
(3) 下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎事典』、平凡社、1971年、200頁。
(4) なお一部の近代美術史研究には、具体的な根拠を示さないままに「『世界美術全集』が美術を大衆化した」などの指摘するものがある。しかし円本全集の階層横断的な流通や、「大衆化」の効果については疑問が付されている(有山輝雄『近代日本のメディアと社会』(吉川弘文館、2009年)など)。これを踏まえ、本発表中では「大衆」や「大衆化」の語は用いていない。本発表では後述のとおり、西洋国家に対して発信されたのではなく、国内のアカデミック(専門研究者)に対して発信されたのでもないという意味で、「日本国内のパブリックに対して発信された」と述べたことをお断りしておく。
(5) 円本文学全集における配本の工夫については、高島健一郎「商品としての円本」(『日本出版史料』9、2004年)、石塚純一「円本を編集した人々」(『出版研究』29、1998年)などの指摘がある。
(6) 『東京朝日新聞』1927年10月16日朝刊、1頁。
(7) 『世界美術月報』26、1929年、8頁。
(8) 円本全集全般を論じて「所蔵」という受容形式について指摘した論考に、塩原亜紀「所蔵される書物」(『横浜国大国語研究』20、2002年)がある。
(9) 『東京朝日新聞』1927年10月3日朝刊、4~5頁。
(10) 佐藤道信『美術のアイデンティティー:誰のために、何のために』、吉川弘文館、2007年、162~64頁。
(11) 水上睦男「第三次美術全集ブームか?」、『月刊美術』179、1990年、189頁。
(12) 『読売新聞』1966年12月23日朝刊、3頁。
(13) 『読売新聞』1967年1月27日朝刊、6頁。
(14) 『読売新聞』1980年9月21日朝刊、2頁。
(15) 註11前掲『読売新聞』。
(16) 註12前掲『読売新聞』。
(17) 『読売新聞』1977年8月21日朝刊、2頁。
(18) 河野元昭「あのころのこと」(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/essay/kohno.html)など。
(19) 木下直之「序」(同編『美術を支えるもの』、東京大学出版会、2005年4頁)、同「ほとんど何も思い出せないけれど」(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2009/4.html)。
(20) 註9前掲『美術のアイデンティティー:誰のために、何のために』、163頁。

 

質疑応答
質問1:美術史学がアウトリーチを行なう際に用いるメディアとしては、美術全集のほかにも、現在は美術館などで販売されているDVDなども人口に膾炙しているはずで、これらも併せて考える必要があるのではないか。
太田:ご指摘のとおりだと考える。ただしその前に、1920~50年代に始まったラジオの美術番組や美術映画、それらを後継したテレビの美術番組について分析する必要がある。DVDソフトなどは、それらを踏まえて展開したメディアといえるだろう。1920~50年代は、現代的な娯楽や消費が成立した時期で、この時期の社会状況が、美術史学がアウトリーチを行なう環境を現在に繋がるかたちに整備した。(円本)美術全集も、そうしたメディアのうちの一つである。これらの状況の考察については、発表者が別稿を準備中である。
質問2:数十巻にわたる大部の叢書である美術全集を、購読者が具体的にどのように消費していたのかを含め、受容者側の状況をどのように考えるのか。“ブーム”期の美術全集の購入者たちと、ゼロ年代以降の入門書の購入者たちとは、具体的に何が異なるのか。
太田:今回の発表では、メディアに対する考察を行なったのみで、受容者側の状況については全く言及ができなかった。現時点での発表者の能力と知見では答えが出せないが、発表者が最も関心を持つポイントであり、とくに円本美術全集の購読状況などについては現在、調査を進めている最中である。“美術ファン”や、彼らの美術リテラシーがどのようなレベルでどのように形成され、どのように変遷したのかに関わる重要な問題であると考える。今後の考察の課題としてゆきたい。