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mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
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●2006年2月18日(土) 現場研究会討議記録

宇都宮美術館ほか4館で開催された「構造社展」について、彫刻と戦争画―戦争と美術―の問題に触れながら浜崎氏、大谷氏、黒川氏をゲストに、河田明久氏をコメンテーターとして招き発表と討議を行った。

ゲスト:浜崎礼二氏(宇都宮美術館学芸員)
    大谷省吾氏(東京国立近代美術館学芸員)
    黒川弘毅氏(武蔵野美術大学彫刻科教授)

テーマ:「戦争と美術」―「構造社」展と戦争画

[浜崎氏発表:「構造社」展―「戦争と美術」の切り口から]

 構造社は大正15年、反帝展の動機をもって創設された。帝展彫刻部の当時の審査に対して、斎藤素巖が意見書を帝展の事務局に提出したことが直接のきっかけとなった。彫刻の審査の在り方に不満を持っていた面々が集まっていき、構造社という団体が出来た。昭和2年に第一回目の展覧会が開催され、最終的には昭和19年、解散命令が出るまで続いた。現在の「新構造社」は、昭和11年に構造社から分派した別の団体である。
 構造社のリーダーの斎藤素巖は、父が白馬会参加の洋画家で、職業は造幣局の紙幣作りの技師であったため、父に子どもの頃から興味のあった彫刻科に進むことを許されず、東京美術学校の西洋画科で学んだ後、島根の旧制中学校で教師をしていた。ここまではあまりドラマの少ない素巖であったが、父の死をきっかけにあきらめていた彫刻の道を志すべくイギリスに留学。帰国後は帝展に出品するに至る。素巖が構造社のような反帝展の動きを取れた要因として、しがらみの少なかった経歴が挙げられるだろう。もう一人、構造社の中心的な存在であった日名子実三は、宮崎県にある八紘之基柱の記念碑で知られる作家である。この作品は昭和18年に完成しており、その後日名子は戦争終結前の昭和20年5月に急死しているため、最後の作品となってしまった。そのため戦後は「八紘之基柱」の作者のイメージが非常に強くついてまわる状況にある。そのような日名子であるが、若い頃はアヴァンギャルドな活動をしていた。例えば、今和次郎ひきいるバラック装飾社という建築集団にも名を連ねていた人物である。
 素巖と日名子を中心として、構造社は「彫刻の実際化」、建築との融合をスローガンとして全面に押し出していく。それは彫刻による経済的苦境を打開するべく経済的自立を目指すものである。事実、建築装飾やメダルなどの製作は、構造社のメンバーの現実的な経済的支えとなった。例えば日本が大きな団体を積極的に送り込んだ昭和7年のロサンゼルスオリンピックの(時代背景として大正時代から続くスポーツブームがある)優勝杯やトロフィーなどが重宝され、構造社の多くのメンバーにも制作の依頼が舞い込んだ。また、構造社の特徴である「綜合試作」は、第3回構造社展よりみられる。綜合試作とは、誰か一人が舞台装置のようなものを設計し、そこにメンバー全員の作品を組み込み展示するやり方で、一つの複合体の作品を作っていくものである。このような試みは、美術界では「構造社はおもしろいことをやる団体だ」という当時の表記もみられるように受けとめられた。但し建築観については色々と論議もあった。例えば分離派建築会の蔵田周忠は時代遅れの建築観ではないかなど、批判的にみられることもあった。
 構造社は毎回展覧会に際してパンフレットを作っていた。自分は調査を始めてから構造社のパンフレットに興味を持った。個々人が自由に書いており、ギャグを交えるなど、自由な雰囲気に満ちている。昭和7年より構造社に参加した河村目呂二は、大正末から昭和初期、美術としてというよりは、当時の文化面のエログロナンセンスのうち、「ナンセンス」として取り上げられる人である。作品はメランコリックな夢二風であり、かつナンセンスである。目呂二は構造社の他に、三田平凡寺率いる「我楽他宗」に参加していた。我楽他宗は個々人が山号や寺号を持ち、お金にならない趣味・収集などを愛好する文化人のサークルのようなユニークな集まりである。我楽他宗と構造社との関連は調べていくと、目呂二にとどまらず陽もその会員であり、雨田光平は平凡寺の娘と結婚し、仲人を日名子がつとめるなど、おもしろい人脈がみえてくる。このように、当時のナンセンスを用いた社会批判の態度は、構造社へのナンセンス系の人の参加によって、諧謔性を伴ったカタログ作りなどの活動に反映されており、興味深い事柄である。
 ところが新しい手法がなくなったこともあろうが、構造社の存在は次第に他の在野団体の中に埋没していく。その機転として、昭和12年の松田文部大臣による帝展改組の在野団体参加の呼びかけが挙げられる。元来反帝展として創始した素巖自身が帝展に復帰すると、構造社所属の作家の多くもそれに続く形で出品するに至る。その頃から構造社の展覧会内容自体に新しい企画性が段々と消えていったような感じを受ける。
 自分は本展を企画していて、「時代と構造社」との関係を常々考えていた。そして以前企画した「版画をつづる夢」展との関わりが浮かんだ。前展覧会は、宇都宮という地域から版画家の川上澄生らを取り上げた。宇都宮では川上が学校の先生などに版画を教え、やがて教師たちは自ら版画の同人誌をつくるようになったが、これらの創作版画の流行は大正14年末頃から日本各地にみられるものであった。そこでは郷土玩具やそれに類するものを描く特徴がみられ、構造社との関連で言えば、目呂二人形が描かれたりした。また、構造社のメンバー自体にも人形をつくる人が参加しており、例えばマネキン作家の荻島安二らの参加はユニークであり、時代背景の関連を感じる。1924〜25年、地方の創作版画誌の発刊が始まり、1940年頃に消えている。宇都宮で言えば大正14〜昭和9年頃には終わってしまう。その要因としては例えば創作版画が盛んであった青森などでは、当局の監視が始まり発行禁止になることもあったようだ。そしてこの動向は帝展改組以前に消えている。このことは、構造社がおもしろくなくなる時期と重なっているのである。昭和12年以降、精彩を欠いた構造社は、この頃から戦争を描いた作品が増えてくる。例えば日名子は昭和10年頃、古代の人物の服装をした武人像を制作していて、日中戦争から第二次大戦へのこの時期に、固い感じの国家主義的なにおいがしなくもない造型をつくるようになる。また素巖は表現は違っているが、昭和14年頃、母親が傷ついた息子の兵士を膝枕する姿を描く像などの母子像を描いている。しかし母子像に関しては戦況による影響だけでなく、構造社初期の時期、例えば後藤清一の作品にみられるなど、構造社の一つの特徴でもある。「母子像」は、田中修二氏の見解によると第一次大戦後のドイツ表現主義の作品に多くみられるという。戦場になったヨーロッパでは、第一次大戦後平和を願うような母子像が多くつくられていた。それは素巖がイギリス留学をしていた時期、戦争の激化による王立美術館の閉鎖の時期にこれらの母子像の作品と遭遇しており、それらの作品が掲載された書籍を持ち帰り日本でも紹介をしている。このようにして当時ヨーロッパでみられた母子像という形態が構造社の作家に広まった。ただ問題なのは、当時構造社の作家たちはその背景(第一次大戦の惨禍の結果としての母子像であること)を理解していたとは考えにくく、形として入ってきたきらいがあり、その背景の真意が伝わったかと言えばこの「母子像」というものを例に取れば難しいと言えるだろう。もしその背景や真意まで汲み取っていたとすれば、戦時期の彼らの表現というものも変わっていた可能性もないとはいえなかったのでは、と自分は思っている。

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[大谷氏発表:東京国立近代美術館と戦争画―戦争画の過去と現在とそして]

 自分はヨーロッパの前衛美術、特にシュールレアリスムの日本への受容について、時代的には戦争期として重なっているが、逆に戦争中弾圧を受けていた動向についての研究を行ってきた。その自分が今回ゲストとして招かれたことは、東京国立近代美術館(以下「近美」と略記)という153点の「戦争記録画」を持っている美術館員の立場としてのことだと思っている。今日は、美術館の職員としての立場と共に、普段から痛感している「戦争画」の共通認識の部分を踏まえた上で、そこから問題提起となればと思っている。
 自分は、1994年に近美に就職した。その頃はちょうど戦後50年をひかえた頃であり、ジャーナリスティックに戦争画が取り上げられることが多かった。当時自分はコレクションの担当をしていたこともあり、取材の窓口を引き受けることが多々あった。新聞やTVなどが取材に来られたが、大体が菊畑茂久馬や司修らの著書などの「近美が戦争画を隠している、悪いところである。」という認識を持っている。当時は特に戦後50年ということもあり、取材の件数も多かったのだが、その後も今に至るまで毎年何件かの取材はある。そこで感じることは、この10年間「戦争画」についての情報はどんどん蓄積されているはずなのに、認識のレヴェルがあまり変わっていないのではないのかということである。美術を専門に勉強している方面では議論が高まって話が蓄積されている気もするが、浸透としては薄いように思う。美術館としては共通認識を作っていかねばならないと思うところであるし、美術に関心のある人の間についても、議論の土台がどこまで共有できているのかいうことを前提として問いたい。
 まず戦時中について。近美は153点「戦争画」を収蔵しているが、そのうち2点は大正時代に描かれたものであるのでそれを除くと151点。1937年の日中戦争開始後、画家たちが従軍するようになる。始めは軍からのいきなりの命令というよりは、自主的に行く人や新聞社が派遣する人などにより段々と人が増え、翌1938年6月に大日本陸軍従軍画家協会がつくられる。以後1939年4月に陸軍美術協会が新たに組織され、同年9月には第1回聖戦美術展が開催されるようになる。この辺りから本格的になり、軍が国民を戦争に対するモチベーションを上げていくことの宣伝としてこのような展覧会が増えていく。1941年に第2回聖戦美術展、または陸軍だけでなく、海洋美術協会や航空美術協会などもできる。太平洋戦争勃発後初めのうちは日本が勝っていたため、国の全体的な盛り上がりのうちに、1942年に大東亜戦争美術展、1943年に国民総力決戦美術展など、大規模な戦争画の展覧会が開かれていくことになる。それ以後戦況が段々と悪くなっていく中で、1944年の文部省の秋に毎年行われる「文展」もこの年は戦争物を特別に扱った戦時特別文展として開かれ、また1945年4月に東京大空襲の後にもかかわらず戦争記録画展が開かれるなど、多くの展覧会が開催され続け、非常に多くの作品が展示されたことになる。この中には勿論軍が画家に命じて描かれた「作戦記録画」も多数含まれてはいるのだが、これらの展示作品のうち数百点、また応募作品数千は自主的なものであった。また戦争画の展覧会への入場者数は桁違いの集客で、昭和18年の戦争画の展覧会入場者統計(地方巡回も合わせての数だと思われるが)385万4千人。会場は一体どのような状態だったのだろうか。これだけの人が熱心に戦争画を観に行ったのである。
 1945年8月、日本が戦争に負けて終戦をむかえると、これら実際に描かれた膨大な戦争画は散逸していった。戦争中に空襲で焼けたもの、戦後戦争責任逃れのため自主的に焼かれたもの、或は(未だに)隠されたものもあると思われ定かではない。ただ1945年10月頃から翌年6月頃にかけて、連合国軍によって戦争画が、東京だけではなく地方に巡回していたものも回収され、上野の都美術館に集められ保管された。それが153点にのぼる。1951年7月、アメリカへまとめて移送される。アメリカではペンタゴンやいくつかの軍関係の施設に分散され保管されていた他は戦争関係の博物館に出ることもあったようだ。1961年日米修好100周年ということもあり、返還運動がジャーナリズム関係から起こり始める。美術館にとっても、戦争の部分が抜け落ちてしまっているのはよくなかろうと、近代美術館とかつての戦争中展覧会主催者である朝日新聞とが一緒になり、1964年くらいまでに外務省に掛け合うなどの動きをとった。そうしたなか、1967年写真家の中川市郎がアメリカの施設にあった戦争画を取材し撮影した作品の写真をノーベル書房から『太平洋戦争名画集』として発売するなど、徐々に返還運動が意識されるようになっていく。そして、1968年にアメリカ国務省と日本の大使館との間で交渉が大体まとまり、1970年3月31日に文書の調印、以後10日程で日本に戻ってきた。無期限貸与とされたため、アメリカはいつでも返還要求ができることになっているが、日本にあるうちは、展示や修復などの取り扱い自由である。戻ってきた作品は状態が非常に悪かった。軍の倉庫などに木枠から外され巻かれていたのである。そのため修復には1975年まで6年ほどの歳月をかけて修復が行われた。修復が大体終わったなかで、展示の計画が行われていて1977年3月、50点の展示が予定されていたが、直前になり館長の決定によりお披露目中止になる。その理由は明らかになっていないが、おそらく戦争の相手国への配慮など、政府レベルからストップがかかったらしいと言われている。このことは「(近美が)戦争画を隠している」と言われることの元になる出来事となってしまった。しかし美術館側は、日本の近代美術史の流れを辿る上で、戦争の部分が抜けてしまうことはいけないという認識から、どうにかして展示したいと考えていた。しかし一方で周辺諸国への配慮などについても議論された。その結果、近美は原則として、戦争記録画を公開はするが、一括では出さず、常設展で出していくことになった。1977年の7月に藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》、宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》、清水登之《工兵隊架橋作業》、中村研一《コタ・バルB》の4点が展示された。以後も常設展の中で、徐々に出していく方向で展示を行ってきて、現在までで、153点中120点ほどは出している。それでもなお、近美が隠していると言われる所以は、戦争画を出している常設展のほうは多くの人が見逃しがちだからかもしれない。とはいえ、最近まで美術館が戦争記録画の公開に慎重だったのは事実。まとめて展示する機会をつくらない事に対しては、戦後60年とは言っても現在もなお、強い拒否反応をみせる外国人や描かれた兵隊の遺族が訪れることもある状況で、現場の学芸員としては、国立の美術館としての難しさを感じている。以上が現状を含めた経緯である。
 以上のことに加え、ここで問題提起をしたいと思う。それは、近美の持っている153点ということが強調されすぎているのではないか、相対化されても良いのではないかということ。いわゆる「戦争画」を所持しているのは、何も近美だけではない。例えば靖国神社、自衛隊、護国神社などの施設から、各地の美術館の収蔵品、福富太郎氏のような個人コレクターにまで及ぶ。例えば1967年12月に、アメリカから153点が帰ってくる以前に国内に残っている作品だけで展覧会が開かれている。戦争画というとどうしても近美の153点に議論が集中する。確かに中には重要なものが数多く含まれてはいるが、数の上でいえば戦争当時に描かれた膨大な作品のごく一部であり、さらに視野を広く向けるべきである。
 そして、戦争画の枠組について考える必要があるのではないだろうか。戦争画というとわたしたちはどうしても「戦闘図」を思い浮かべてしまう。しかし戦争画をどのように何のために論じるのかを考えた時、自分には「美術と社会」「芸術家個人と社会」との関係ということが問題になるべきだと思う。そうした時には戦いの絵だけではなく、戦争中に描かれた全ての表現全てが問題にされねばならない。この事は既に、丹尾安典・河田明久の『イメージの中の戦争』でも詳しく述べられてきたし、昨年開催された新潟県立美術館での「昭和の美術」展にても、戦争中の直接戦争を描いていないが戦争と関連の深い作品について幾つか分類して展示するなど興味深い試みがみられる。
この辺りについて考えるならば、例えば梅原龍三郎の戦地での風景画や横山大観に代表される富士山等にみられる象徴画、安田靫彦の描く「黄瀬川陣」等に代表される「一大事の時は駆けつけるのだ」という当時(1940、41年)の文脈を持つ歴史画、そして献納画なども挙げておかねばならない。献納画は近美でも200点ほど所有している。1942年3月、日本橋三越が献納画の展示が行われ、これらの売り上げは軍に献納され戦闘機等が購入されたのである。
 戦争画とは何か。近美の153点だけを問題視せずに、周辺部に目を配って考えたい。私たちが現在、戦争画を論じる目的は何なのか?戦争画を評価すること、あるいは批判することというのは、裏をかえせば、批評者側の立ち位置、価値観の表明に他ならない。イデオロギー的立場になってしまうと、そこからの批評しか生まれないのではないだろうか。シュールレアリスムの受容の研究をしてきた自分にとっては、これは現在の問題でもあるのだが芸術家個人が社会とどのような関係を結ばなければならなかったかという事に関心がある。近代美術の個人主義、自由主義が、戦時中はまさに批判されたわけで、私たちが戦争画研究で明らかにしなければならないのは、現在の私たちが当然の前提としている個人の自由が、いかに脆いものであるかということ、個人主義や自由主義が批判されるようになっていくプロセスを明らかにすることだと思う。このことを考えないことには、戦争画について語れないと自分は思っている。

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[黒川氏発表:彫刻の近代―「目的芸術」的出自と絶滅史]

 昨年開催された展覧会の中で、「昭和の美術展」と「構造社展」に大きな感銘を受けた。そのなかの長岡(新潟県立近代美術館)の展覧会では「1945年まで―<目的芸術>の軌跡」という副題を伴っていて興味深かった。ここで言う目的芸術とは、「プロレタリア美術」と「戦争美術」のことである。この副題からの影響ばかりではないのだが、自分は彫刻はその成立からしてそもそも明治期以来「目的芸術」的であったのではないかと思っている。近代彫刻は成立の時点で工部美術学校という出自を持っているし、第3回内国勧業博覧会辺りからその性格が決まったと言えるのではないだろうかと思っている。その性格とは、国威発揚のための記念碑という機能を担わされて国策的に成立したことである。この「目的芸術」的である日本の近代彫刻は未だにまとまったその歴史を書かれていない。例えば70年の時を経て、ようやく構造社の展覧会が開催されたことにもみてとれる。それは日本の近代彫刻史が、結局のところ「作品の絶滅史」であったからではなかろうかと自分は考える。「絶滅」は「目的芸術」としての彫刻の成立と不可分であり、突出した2度の大絶滅期が挙げられるだろう。
 一度目の大絶滅期は「戦争期」に関するものである。まず、戦時中に資材として供給するための「銅像の出征」は、ほとんど無差別に行われた。例外とされる4条件は、皇族の像、宗教的崇拝対象である像、社会的尊敬の対象である偉人・英雄等の像そして戦意高揚に寄与する戦争記念碑等は除かれ、他はほとんど潰された。弾と言っても鉛が多くあまり使い物にはならないはずだが、軍部は戦争への思想的動員或はモチベーション強化のために彫刻を残したり潰したりしながら、「立身出世」をとげた成功者たちの虚栄的銅像を贅沢品としたからばかりでなく、芸術作品に「戦時」が優先することのいわば見せしめとしたのである。大原美術館の前に立つロダンの二体のブロンズ像にすら供出命令が出された。そして戦後においてはGHQによって、軍国主義的とみられたものは撤去された。例えば斉藤素巖が靖国神社に作った爆弾三勇士のレリーフはセメントで埋められた(現在はセメントが外されており、このレリーフは見ることができる)。「供出」については朝倉文夫が中心になり、どの彫刻を残そうかという会議までやっている。それは、プロレタリアートであれファシズムであれ制度的に彫刻本来の主たる使命は、社会的なプロパガンダの機能を担う目的芸術であるという呪縛があったから、彫刻家自身も、それらの彫刻を潰していくことができたのではないだろうか。
 二度目の大絶滅期は、50〜60年代の「民主主義」的風潮の中で端を発する。この時期にかなり多くのセメント彫刻が作られ、日比谷公園等で野外彫刻展が開かれるなど一大ムーブメントとなり、街の風景として溶け込んでいた。しかし70年代になると、公園や都市の再開発によって消失してしまう。戦後の彫刻史の中で大きな高揚を見せにもかかわらず、セメント彫刻はほとんど残らなかった。これら戦後の野外セメント彫刻とは何であったかと言えば、それは結局戦後民主主義的スローガンの元に社会的機能を背負った、目的性の元にあった動向であると振り返ることができる。このことは2つの大絶滅期の興味深い共通点である。
戦争と美術について、彫刻と絵画の違いについて考えてみたい。彫刻は戦争中に潰されるか戦後GHQにより撤去されたり彫刻家が自ら潰してしまったりするが、絵画は無期限貸与としてなくならずに帰ってくる。物が残っていることと残っていないことの差は大きいと思う。このことは、近代彫刻史が描かれないことに大きく影を落としていると思う。戦時中にどこに何があってどのように消滅したかは語られないままである。
 屋外彫刻調査保存研究会に所属する自分は「日本の近代彫刻とは何であったか」を問い続けている。戦前の作品の所在調査活動を通じて感ずることは、本当に実物が残っていないということ。大正、昭和初期の銅像のピーク時のものほとんど残っていない。あるといっても戦前のオリジナルは残っておらず、戦後の再鋳造もしくは別の人がつくった物であったりするし、あるかないかも分からないものも多い。近代彫刻については、これらの大絶滅期について切実に考えなければならない。

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ディスカッション:

当日、戦争のイメージ研究をされている河田明久氏にお越し頂き、ディスカッションにあたりコメンテーターとして問題提起を行って頂いた。

河田 まず、具体的な点について伺いたい。構造社展では母子像の出品が目立ったとのことだ。顕著に見られるのは、いつ頃からか?

浜崎 昭和2年の第1回展からみられ、第2回展以後にはかなり増えていく。特に昭和一桁台までで多くみられた傾向である。

河田 戦時下のいわゆる戦争美術には、兵士とならんで母子像が多く見受けられる。今日の発表では、構造社の母子像をそれとは異なる文脈に置いてみていたようだが、作り手の意識や意図とは別に、受け手の側では、構造社の母子像を戦争美術のそれへといたる一連の流行のモチーフとして区別なく受け止めていた可能性はないだろうか。このことは、大谷さんのいう「戦争美術の定義のむずかしさ」ともかかわっている。戦時期の美術については、作者の表現意図だけでなく、それがどう享受されたかという点にも配慮しながら立体的に考察する必要があるように感じた。また具体的な質問にもどるが、宮崎の八紘之基柱にヨーロッパの戦中モニュメントのイメージからの影響はあるのだろうか?

浜崎 素巖が持ち帰った本の中にメッツのライプチッヒ記念碑等が写真図版として入っている。この本は素巖が翻訳(『近代彫刻の傾向』)を行っているので所持していた事実がある。そして素巖は自宅を構造社の事務所と兼ねていた。構造社の面々は素巖の自宅を訪れて集まっており、その中で目にしている可能性が高く、影響を受けたのではないだろうか。実際この本に出てくる作品と非常に近い作風がメンバー内に幾つもみられる。影響はあるのではないだろうか。

大谷 先程挙げなかったが、新潟の展覧会には彫刻作品も展示されている。ただ彫刻の場合戦闘図は表すことが難しく、レリーフで多くみられる。一方彫刻では歴史的、神話的モチーフが多くつくられた。これらは例えば神社等に入ることが多く、そうなるとますます文脈というものが曖昧化されていってしまう。それを例えば姫路市立美術館では「美術と戦争」展をなどは東近美から一点も作品を借りずに関西方面の護国神社や個人コレクションなどから集め戦争美術の展示を行った。企画者の平瀬礼太氏による尽力は大きい。このように様々な議論や視点が出た上で、近美の153点を考えていきたい。

浜崎 先程の大谷さんの発表から、近代を否定しなければならなくなったことから、戦争に傾倒していくのだということに共感している。美術と戦争ということを考えようとすると、昭和12年の以前なのか以後なのかということが気になっている。先程創作版画について取り上げたが時代の繋がりを感じたいためお見せした。創作版画は素人の教員たちへ広がった後、子どもたちに自由教育の一環として伝わっていく。学校から子どもへ版画を通した自由美術が教えられる。自由教育では、綴り方教室や作文なども含まれる。そのような中で、子どもたちは、風景や郷土玩具や生活にまつわる主題を描いていく。つまりそれは、子供たちが自らの身の周りの現実に気づいていくことになる。それは自分たちが住む社会そのものにも目を向ける可能性を育むことにもなっていく。つまり、創作版画というものが、自分たちの現実まで強く意識させてしまう。すると、「それは時局柄よろしくない」ということで、外圧がかかっていたと思われる。そういった自然消滅的なものと明らかな外圧的なものがあるだろう。また我楽他宗も実は関係があるとみていて、当時のエログロナンセンスの時代何度も発禁処分になってもエロ雑誌を作り続けた梅原北明など、社会への反抗勢力があったのが、急に消えていく過程は関わっているのではないだろうか。また、先程の戦争画の話に付け加えれば、戦時中兵士の慰問袋には絵具が2、3入っていることはめずらしくなかった。そのような中、画学生や絵が趣味の人が描くことがあったようだがそういった戦時中の絵画の在り方もあった。

黒川 例えば彫刻家を官展系と反官展系とに分けてみると、個を尊重してきた人々の方がかえって戦争にのめり込んでいく。例えば第三部会、日名子実三。高村光太郎は詩で翼賛体制に荷担していく。一方の官展系の人はどちらとも取れるようなあざとい作品を作る。自分の心情としては本気になっている日名子や院展系の人たちの作品の方が批判を受けるかも知れないが作品として好きである。それだけに個を重視した人たちがなぜあの局面で翼賛体制に自ら進んで協力していったのか知りたい。松本竣介のような彫刻家は居ない。浅野孟府は、あれだけプロレタリアアートの活動をしていたのに、である。それは元々戦争というものが芸術の持っている強い衝動と切り離せない物があって、表現者にとってその局面は何かたまらないものがあるのではないかと。

大谷 官展系の作家は美術という権威的な枠の中で自足出来たのだと思う。それに対し反官展の側は常に対社会というものを意識せざるを得なかったのではないだろうか。プロレタリアアートの時には社会が民衆的であっても、戦争となれば向き合う社会も戦争になってしまう。裏表の危うい関係性があるのではないだろうか。美術というものは自閉的世界、自立性というものがある一方でやはり社会と切り離されてしまうことへの不安、何か一大事があったとき、美術も何かしなければならないと感じさせてしまうところがある。もし美術に<個>の重要性があるならば、それは社会がある方向に流されていく時、別の視点を立てるような表現ができることがそうなのだと自分は信じたいのだが、今で言えば、神戸の震災、9.11、イラク戦争の時に「美術家は何ができるのか」などと問われたり感じたりしてしまう事が現状としてあるのではないだろうか。

黒川 それは絵描きと彫刻家の違いがあるのではないか。構造社の前のパンドラ社や「彫刻の実際化」などを推進する構造社は、食えない彫刻家が食べるために作った彫刻団体である。戦時期の第三部会や国風彫塑会は軍から材料費をもらえたり、仕事が来たり食いぶちになるようなことがあったのだろうか。

浜崎 確かに構造社設立の動機には、経済的自立が挙げられる。まずスポーツ隆盛時代が来てメダルの需要が高まりある程度まかなうことが出来るようになると、次に「家庭の中にも彫刻を」と小品を作るようになる。恐らくそこには東京府美術館の会場は広すぎて少人数で埋めていくことの困難さからくる必然があったのかも知れないが、彼らの言うことには、小さければ家庭の中に入り、作品が売れれば経済的に自立して行くことができるといったところだろう。当時彫刻家は日本画家等に比べると文展・帝展に入っても食べていく道をほとんど塞がれていたと言っていい。構造社という団体はかなり社会の目への意識が強かった。始めは反帝展として反旗を翻してみせると高村豊周らに評価される。建築との融合というものも接点を見いだしていこうという動きや、メダル作りにしてもそうである。今の議論から彼らが社会に対して敏感であったのではないかと感じる。そのことが戦争期の社会に対し彼らが戦争と相対することになったのではないだろうか。しかし、現実的に彼らが戦争の中で食べて行けたかということは実際には難しかったのではないだろうか。

黒川 例えばアメリカのニューディールのような、芸術家を一元化して掌握して育てていくような体制など、そういう幻想を軍部が作家に与えていったことはなかったのだろうか。イタリアでは、ムッソリーニのファシズムが彫刻家たちを食わせた。日本の軍部にはなかったのか。

大谷 大政翼賛会頃に芸術家一般の中ではそのような幻想が生まれることがあったかも知れない。

河田 確かにそのような幻想はあったと思が、実際に食えたかは、ケースバイケースであったように思う。軍部に協力したからといって食えるという特別なケースは聞いたことがないが、ただ戦争により厳しくなっていくなかで、相対的に影響されていったことはあるだろう。それと先程の、「個を重視していた作家たちが、なぜ…」ということについては、先程の「社会のなかでの立場を意識せざるを得なくなっていた」ということのほかにもう一つ、昭和戦前期という時代が、個性というものの信頼が地に堕ち、きわめて輝きにくい時代だったということもある。急激に画学生の数が増え、個性にインフレをきたしたこともあってか、この時代には、個性に生きることを願った大正期とは対照的に、むしろ個を超える態度をこそロマンティックとみる風潮が生じている。伝統に向かったり、特定の時間を超えた古典的なるものを模索したり、はたまた個人としての思惑を革命闘争や国家のための努力に溶かし込もうとするなど、それが戦時体制であれ何であれ、個人を超えて存在する文化の枠組みには入っていき易い素地が整っていたのではないだろうか。実はそれこそが文化の戦時体制を支えた思惑の根っこであったのではないかと思う。

黒川 反官展の人たちは留学した人が多い。そして優秀な戦争モニュメントを見ている。そこで日本国内から出ずに作品を見ていない人と見た人の違いは大きいのではないだろうか。彫刻というものが戦争の目的芸術的なものであり、それが彫刻家の使命ならば、個が云々ではなく、本気で燃えれば本望だということがあったのではないだろうか。それを戦争にあてはめて彫刻で成し遂げようという意識があったのではないだろうか。

発言者1 しかしそれは絵画の場合にも歴史画の問題に引きつければ、やはり明治からあったことだし、必ずしも彫刻固有の問題とは言い難いのではないだろうか。それと先程の「彫刻の絶滅史」は魅力的テーマだが、失われた数から言えば描かれた数も多く、絵画の方が圧倒的に多かったのではないだろうか。彫刻については「会場芸術」としての側面があり、構造社の場合は特にそうである。銅像・モニュメントに関しては先程言われた通りだが、会場芸術としての彫刻は、文展なども鋳造されることがまれで、石膏像であった。金がないからということもあるが、壊されるまでもなく勝手に壊れたり、物質的に残りにくい側面も考える必要もあるのではないだろうか。近代彫刻=銅像ではないので。

黒川 70年代の「彫刻のあるまちづくり」、バブル期の「パブリックアート」が先行する時代の作品の積み重ねを欠いたことを「戦争の問題」として考えたい。モニュメントとしての彫刻が失われたということ、近代彫刻史の中にその問題が書かれないということで話したのだが。

発言者1 近代彫刻史は成り立っていない側面は確かにあるが、そこには芸術の序列の問題が大きいのではないかと思っている。第一芸術としての絵画と第二芸術に留まる彫刻として。

発言者2 構造社の特徴的な活動で「綜合試作」については、会場芸術面がある一方で、モニュメントタルな側面を建築との融合で展開していこうという大きなプロジェクトがあって、そのモニュメント性に、戦争芸術との関わり合いがあったのではないかという気がするのだが。

浜崎 確かに構造社はモニュメントというものについて、彫刻と建築融合について声高にアピールしている。その背景は、先程黒川さんが言われたように、彼らがヨーロッパで見た中で戦争モニュメントが多かった事は手記などにもみられる。会場芸術としての到達は綜合試作の中で果たせたが、いざ外に出てモニュメントということになると、その当時としてモニュメントとして設置されたものは実はあまりない。現実に国内では八紘之基柱他数点ではないだろうか。

発言者2 事実関係とは別として、構想レベルで構わないが、八紘之基柱自体が大東亜共栄圏モデルの発想があり、大陸に同じような塔が建てられる構想があったのではないかと思うのだが。

浜崎 構想レベルではあったし、実際幾つか建てられたと思われる資料が絵葉書や風景写真などあるにはある。それらが現存しているかなどは定かでない。「モニュメントが機能的な建築でないということに意義を持つとすれば、そのようなものを創らなければならない動機(状況)とその資金源が必要となる。そうなると軍事的な建造が可能性として最も高くなる。しかし、実際昭和初期に構造社にモニュメントの依頼が舞い込んだかという点については、はなはだ少なかったと言えるのではないだろうか。

発言者1 長岡の「昭和の美術展」について感じたが、「目的芸術」と言っていたが平たく言えばプロパガンダ芸術であって、そこから結局一歩もでていなかった。先程から上がっている社会と美術の関わりについて、構造社にも関わってくることだが、バラック装飾社のようなアヴァンギャルドについても社会との関わりということが、本質的な問題として言えるのではないだろうか。


(記録/complex編集部)