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中村錦平氏インタビュー「東京焼」を語る 2    1 2 3 4 5

<伝統という場所から>

Nakamura Kinpei
C:その姿勢って、錦平さんが伝統に対する意識と同じようなところはありますよね。
つまり、伝統ということを、黙視して行くのではなくて、自分の糧であり、なおかつ拮抗するものである、というような。

N:おっしゃる通りですね。顧ると、僕の生き方はいつの間にかそういうことになってしまいましたね、結果として。それでいこうと計画立てて、着々とステップ上がってきたわけではないんですけど。生まれた所が、金沢みたいにああいう伝統のある所であって、あらゆる手仕事が存在して、それで、そこに住む人が、わけも無く伝統的なものなら素晴らしいという人たちだった。そこで敗戦を、小学生4年生の時に体験。かつてない文化の大変革に遭遇したものだから、「現状でいいのかしら」という思いを持ち続ける人間が一人できてしまった。で、その周囲が今言ったようなぬるま湯につかっているままのような場所だった。それで自己批判し、反逆するという気持ちの強い生き方になってしまったとは思いますけど。

C:ところが、結局、それが無ければ、逆にそういうことが無かったという、

N:と思いますよ。だから、いつも伝統に軋轢を感ずる面と、歴史をさかのぼることができて幸せだったという面と、共にありますよね。金沢だと、具体的には人間国宝と芸術院会員を最高のものとして、在野ゼロ、自己批判なしという街ですから、そういうところに生まれたから、終戦という価値観の大変動に遭遇した青年として、「これでいいのかしら」という風に思えましたよね。そういう抵抗し、批判しなきゃ「生き方として不誠実じゃないかしら」と。だから、そういう抵抗体みたいなものがごろごろある所に出会え、つくり手としての主題をみつけられて幸せといえば幸せ。

C:そうですね、ある意味で幸せですね。

N:で、その御本人の背景には、父がいて祖父がいてという、こう、ものづくりの歴史がなんせあるから。多摩ニュータウンに生まれて、モダンリビングがあって、じゃないから、いやでもそれはどういうことなんだと感じざるを得なかった。

C:結局、抵抗体みたいなものがあったからこそ、それを超えようと意欲沸いたし、という。

N:そうなんですよ。それに気が付かせてもらえたというのは、すごくありがたいことでした。

C:ですよね。ちょっと余談になりますが、例えば、中国の作家が、ちょっと前まですごくもてはやされていたわけで、現代美術のね。

N:あぁ、現代美術ね。はい。

C:ところが、彼らは、日本経由してヨーロッパとかアメリカに定住するんですよね。すると作品がどんどんつまらなくなってくる。

N:なりますか?

C:なってますね。

N:当たり前かもしれませんね。

C:で、単に逆に今度は中国を売りにしてくるみたいな感じになって、中国にいたときの体制に対する抵抗感を、ばねだったものが、逆に今度は抵抗が無いから、なんかこう中国文化や伝統の切り売りみたいになってしまう。

N:その辺、作り手にとっての怖いところですね。いや、僕もね、だから、金沢とあえて行き来を相変わらず続けていてこだわっている。金沢からの出身者、室生犀星(註4)とかみたいに、郷土から出てきてしまって、ふるさとは遠くありて思うもの、になりたくないと心している。いまおっしゃったような、いちいちギクシャクする相手がなくなるから(笑)。地方から文化の発信力をつけるべきで、いつまでたっても受け手では駄目だと自己批判しているものですから。事を起こし、物議を醸してきました。1973年11カ国150人による「thinking touching Drinking Cup」国際展(註5)を、1982年日米100人による「Art and /or Craft 飾るの現在」展(註6)をやり、1993年、自分の「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」展(註7)を東京、芦屋の先にやりと、10年に1回ずつ金沢にぶつけるみたいな御丁寧極まることをやってきた。あぁ、そして今回の著作をぶつけるとなりました。

C:そうですね。

N:そういう、しないわけにはいかないという気持ちを、持ち続けていたから、そう展開していったのだ、と思いますよ。

C:あえて、だから金沢へも行くという、帰って東京でもやっていくという。

N:そうですね。それがすごく幸いしてますね。

C:室生犀星も、出てきちゃったら、あとはロマンに走る以外なくなって、みたいなことに。

N:なるんですよ。僕そこまで考えて、金沢との因縁のつなぎ続けたわけではなく、性格的にか、終戦でえた変革の思想みたいなものから、抵抗すべきものに批判しつづけていたいから、そうなっただけなんですよ。結果とすれば、自分に納得できる人生を歩めましたね。

C:そうですよね。普通えらくなってきますよね。

N:えぇ。あの、だから、例えば、金沢市長が僕の「メタ・セラミックス」見に来た時に、受付のところの個展の意図の表明文の中に、「金沢は文化を発信するシステムが無い」と書いておいたら、怒って怒って(笑)。
その次また、今度は副知事と市長と司会者と中村錦平で、金沢文化をどうするかというシンポジウムがあったときの朝、ホテルで、北國新聞という地元紙を見たときに、金沢の用水がすごくきれいな水になって魚が上ってくるようになったと書いてあったから、その日の夕方のシンポジウムは、「これだ!」と思って。何を言ったかというと、市長は魚が上ってくるって幸せとおっしゃいますけど、僕のようなアーティストが帰って来られるようにするほうが、もっと大切なんじゃないですか、と(笑)、こう言って、僕はそういう街になって欲しいと本当にそう思いますよ、って。その晩また怒って(笑)、お前なんか大嫌いだって30分くらい言い合って、僕ももうちょっとで、お前こそ大嫌いと切れそうになったけど。でも、あの市長が21世紀美術館を作り出したわけだから、結果として、にくまれ役を続けたから、僕も結構人動かしたんじゃないかな、という気もしていますけどね。

C:まぁね、21世紀美術館については、いろいろ考え方ありますけどね。結局、東京のを持って来ているという意見も。

N:よく見抜いていますね、怖い。この間も、僕は、Cup国際展、1973年の時のカタログ、今回の著作に再録したくて、自分の文章読みなおしていたら、表日本・太平洋・発信、裏日本・日本海・受信、それを変えねばお話にならない。で、伝言板的展覧会を何回重ねたところで、地方は強くならないと。今、いみじくもおっしゃった21世紀美術館は、相変わらず世界の伝言板的美術館であって、発信はしていませんよね。どんどん無理になるような状況が見えてきます。

C:そうですよね。

N:ただ、発信というのも、一朝一夕に発信体を持てるわけがなくて、むしろ受信の方が簡単、発信するには、足元に生まれてきた僕たちみたいのを上手く活用すべきなのだが、その辺がすごく難しい。自らに葛藤と批判と実験を持ち込むというのがむつかしい。本当はそれをやらない限り、地方から文化を発信できるという風には絶対ならない。

C:そうですね。だから逆に自分の文化の中に、獅子身中の虫がいるような状況を作れることも—

N:89年NHK金沢放送局主催のシンポジウム“金沢21世紀への戦略”で立花隆が中村錦平を金沢が追いだすようではお話にならない、と言ったそうですけど。これ人間の本性として、至難ですよ。それをやらないと本当はだめなのよ。日本の美術を見ても、それをやらないものだから、明治この方100余年、輸入100%で輸出0の国のままなのよ。相変わらず。これは、あの今提髪さんが言った、獅子身中の虫を各地域が育てていない証みたいなもので、それをやってないと。それは、日本についても言えるし、金沢についても言える事だと思いますけど。

C:特に、工芸の場合ね、因習的にも強いものがあるから。だから、錦平さんみたい人を、向こうで他の人間国宝と並べるわけにはいかない、というねぇ。

N:そうですよね。

C:ところが、それを並べるという許容度が高ければ、本当は—

N:出てくるね。でもね、この間、京都でも、あぁこうなんだと思ったのは、僕は、国際日本文化研究センター(日文研)で、これは、北澤憲昭さんの推薦で加わって、僕の方が北澤さんより熱心な共同研究員だったのですけれど、そこのテーマが、「京都を中心とした日本の伝統工芸の過去・現在・将来」という、もう今年の11月で終わる、約3年かけたのが。その一方で、京都市伝統産業振興条例(案)、まぁ意地悪く見れば、市長がそういう伝統産業に関わっている人たちの面倒もみている市長でございますよ、という意味で条例作ったのかと思えるんです。その検討委員会の委員長さんが、西島安則さんという人で、かつて京大の総長であって、京都芸大の学長もやり、父上が釜師。言ってみれば伝統的な家に育って、多分頭良かったから京大に入って、それで学者になられ、という方が、晩年、条例を作るところの冠になってしまった。それをね、読むと、「伝統産業工芸で未来を拓く」というんですよ。で、その拓くキーワードが「和」だっていうんですよ。あの、日本の「和」。その西島さんって科学者なんですよ、何故もっと科学者的な分析をしなかったのかと思うのですが、伝統産業工芸が、こんなに下り坂になっているのに、「和」なんかでもって振興できるものか、というところが、僕にはあって。そんな気楽なことを京都も言うのか、と。そんなもんじゃないよって、ぼくはその日文研のレポートにそのことを書きましたけど。京都も、伝統産業と産業構造や文明構造の変遷との関係といった科学的分析が無くて、日本の戦争中の精神主義を思い出したけど、「和」で行こう、みたいな。へぇ、こんなこと科学者が平気で言うのか、と。文明構造が伝統的工芸を核としていた時代を手工業時代だったとすれば、それに続いて、工業化、そして高度工業文明、そして今、電磁波を核とする、情報化文明ですよね。すくなくとも文明構造や産業構造にとって3つ目のステージに入っていて、そこで工芸を考えようとしているわけですよ。3つ前をノスタルジックに考えるだけでは絶対無理。

C:伝統とどう向き合うかなんでしょうね。ところが、みんなそれを等閑視して、分かったようなところで始まってしまいますよね。

N:そうですね。それに、僕なんかも、日本の伝統というか日本の工芸に関わった人物でしかないのに、伝統工芸とは関係ないアート指向、みたいに思われて、この人の言うことは、脇筋からの話にすぎないという風になります。僕から言うと、脇筋ではなくて、まともにやっていたら、時代がこういう生き方に仕向けたのよ、というところがあるにもかかわらず。

C:そうですよね。だって、錦平さんの奥底には古九谷(註8)があるわけだし。その技法というものの現代的展開という形になりますよね。

N:そうですよ。どちらかって言うと、大真面目に伝統に対峙してやってきているのが、なんか、あの人は特殊例だ、みたいになる。そのやむにやまれぬ成り行きを読み取らないで、伝統産業をどうしていくか、明日を拓き、新しく飛躍させる、それは「和」です、なんて単純やなぁって。



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—註—

4)室生犀星:詩人・小説家(1889−1962)。本名、照道。金沢生まれ。北原白秋・萩原朔太郎らと交わり、抒情詩人として知られた。のち小説に転じ、野性的な人間追求と感情的描写で一家を成す。『愛の詩集』『幼少時代』『あにいもうと』『杏つ子』など。
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5)「thinking touching Drinking Cup 国際展」:中村氏キュレーションの国際展。金沢、東京、大阪、札幌で開催。地方文化の担い手の一つである陶芸の意識構造について、変革の視点から検討。地方文化の実実体と陶芸、ブームにわく日本陶芸への自己批判の必要、世界陶芸の新動向とカップ、を軸に企画構成。
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6)「Art and /or Craft 飾るの現在」:中村氏キュレーション、北陸放送開局30周年、金沢400年記念の文化事業として行われた企画。現代の美術表現といわゆる工芸的造形との交流・対照・批判・再構築を狙った野心的展覧会。
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7)「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」:石川県立美術館にて開催。翌94年には青山のスパイラルガーデン、芦屋市立美術博物館へ巡回。
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8)古九谷:石川県山中町九谷から産出する陶磁器。江戸初期に焼かれたのち、18世紀には途絶え、江戸末期に青木木米が金沢市春日山に開窯してから山中などで産した精巧華麗な作などを再興九谷と総称。陶磁史上では、前者を古九谷と称する。
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